吉田 昌郎 Masao Yoshida

吉田 昌郎(よしだ まさお、1955年2月17日 – 2013年7月9日)は、日本の技術者である。
東京電力株式会社元執行役員。

2011年3月に東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故が起こり、福島第一原子力発電所所長を務めていた吉田 昌郎は現場で福島第一原子力発電所事故の収束作業等の指揮対応に当たった。
同年4月には当時民間シンクタンク社長だった青山繁晴に、発電所内を公開した。
海水注入作業を一時中断せよとの東京電力本店からの命令を無視し、独断で海水注入を続けさせたことで、6月に上司の武藤栄副社長が解任論を唱えたり、班目春樹原子力安全委員会委員長からも「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」などと不信の声が上がった。

日本を救った男-吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死 – 門田 隆将から抜粋

吉田さんは、いち早く自衛隊に消防車の要請をし、海水注入のためのライン構築を実行させ、1号機の原子炉格納容器爆発を避けるための「ベント」(格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出する緊急措置)の指揮を執っている。空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身に着けての決死の「ベント作業」は、すさまじいものだった。
その決死の作業を行った部下たちは、私のインタビューに、「吉田さんとなら一緒に死ねる、と思っていた」「所長が吉田さんじゃなかったら、事故の拡大は防げなかったと思う」。そう口々に語った。自分の命をかけて放射能汚染された原子炉建屋に突入する時、心が通い合っていない上司の命令では、“決死の突入”を果たすことはできないだろう。
吉田さんは、彼らが作業から帰ってくると、その度に一人一人の手をとって、「よく帰ってきてくれた! ありがとう」と、労をねぎらった。
テレビ会議で本店にかみつき、一歩も引かない吉田さんの姿を見て、部下たちは、ますます吉田さんのもとで心がひとつになっていった。吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」
武黒フェローの命令に吉田さんは反発した。「なに言ってるんですか! 止められません!」
海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」。そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。

溶融後もデブリ(溶融物)が崩壊熱を発し続けて、放っておくと格納容器の下のコンクリートや鉄筋を溶かし、放射性物質を外界に撒き散らすので、冷やして水没させることは必要で、その限りでは海水注入継続は正しい判断だったとされています。
また、当時の官邸つまり内閣総理大臣は菅直人であり、現場を混乱させたとして今現在も批判をされている。

吉田さんの死後、反原発を主張するメディアが、「吉田は津波対策に消極的な人物だった」というバッシングを始めたことに私は驚いた。それは、まったく事実に反するからだ。
吉田さんは、2007年4月に本店の原子力設備管理部長に就任した。その時から、津波について研究を続けている。
土木学会の津波評価部会が福島県沖に津波を起こす「波源」がないことを公表し、日本の防災の最高機関である中央防災会議(本部長・総理大臣)が、「福島沖を防災対策の検討対象から除外する」という決定を行っていたにもかかわらず、吉田さんは明治三陸沖地震(1896年岩手県三陸沖で発生、津波による犠牲者が約22000人)を起こした波源が「仮に福島沖にあった場合はどうなるか」という、いわば“架空の試算”を行わせた。これによって「最大波高15.7メートル」という試算結果を得ると、今度は、土木学会の津波評価部会に正式に「波源の策定」の審議を依頼している。
さらに吉田さんは、西暦869年の貞観(じょうがん)津波の波高を得るために堆積物調査まで行い、「4メートル」という調査結果を得ている。
巨大防潮堤の建設は、簡単なものではない。仮に本当に大津波が来て巨大防潮堤にぶち当たれば、津波は横にそれ、周辺集落へ大きな被害をもたらすことになる。巨大防潮堤は、海の環境も変えてしまうので、漁業への影響ほか「環境影響評価(環境アセスメント)」など、クリアしなければいけない問題もある。
吉田さんは、津波対策に「消極的」どころか、その対策をとるため、周辺自治体を説得できるオーソライズされた「根拠」を得ようと、最も「積極的」に動いた男だったのである。
しかし、その途中でエネルギー量が阪神淡路大震災の358倍、関東大震災の45倍という、どの学会も研究機関も予想し得なかった「過去に類例を見ない巨大地震」が襲った。福島第一原発の所長となっていた吉田さんは、自らの命を賭けてこの事故と闘った。
吉田さんのもと、心をひとつにした部下たちが放射能汚染された原子炉建屋に何度も突入を繰り返し、ついに最悪の事態は回避された。吉田さんが、「あの時」「あそこにいた」からこそ、日本が救われたのである。