藤井 治(中国名 呉健華)氏の生涯 ~もうひとつの”わだつみのこえ”~ ①

藤井 治(中国名 呉健華)氏の生涯 ~もうひとつの”わだつみのこえ”は、2019年6月19日にYouTube公開された下記の「藤井一良の出生について「学徒出陣50年」蘇る”わだつみ”-戦後なき学徒兵の秘話(前半・後半)」の解説・証言等と歴史的出来事を構成して作成しています。
当時の状況等を理解できるようセンシティブな画像(タップで拡大)も含まれますので予めご注意下さい。


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目次

  1. 誕生から終戦まで
  2. 終戦から文化大革命まで
  3. 文化大革命から一時帰国まで
  4. 一時帰国から、その後…

~ 誕生から終戦まで ~

藤井 治さんは1922年(大正11年)、山口県防府市で藤井 恒二さん、藤井 八千乃さんとの間に四人兄弟の長男として生まれる。

姉の藤井 千代子さん、そして弟の藤井 昇さんと藤井 昭男さんの四人兄弟。
(家族構成は二中国交正常化後、藤井 治さんが残留した湖南省衡陽市から山口県防府市の役所宛てに送った自身の生存と家族の消息、所在を問う手紙から引用)

1934年(昭和 9年)、父親の藤井 恒二さんの転勤で中国大陸に渡り、大連第一中学校を卒業した後、早稲田第一高等学院へ進学し、家族と離れ単身東京に住むことになった。
1944年(昭和19年)2月、学徒動員で満州の関東軍鉄道第三連隊に配属され再び中国大陸に渡り、関東軍鉄道第三連隊は大陸打通作戦に投入される。

大陸打通作戦
日中戦争中の1944年(昭和19年)4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦。
正式名称(日本側作戦名)は一号作戦。
日本軍の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くこと。
日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦。
計画通りに日本軍が連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収めた、その後連合国軍が航空基地をさらに内陸部に移動させたことや、作戦中にアメリカ軍によりマリアナ諸島が陥落し、本州がボーイングB-29の作戦範囲内になったことから戦略目的は十分には実現できなかった。

1945年3月10日、東京大空襲

第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした民間人に大きな被害を与えた無差別爆撃。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受け死者数10万人以上の夜間空襲(下町空襲)。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。

1945年8月6日、広島市へ原爆(リトルボーイ)投下

人類史上初の都市に対する核攻撃である。これにより、当時の広島市の推定人口35万人のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4か月以内に死亡したとされ、入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる。
これは人類史上初の都市に対する核攻撃である。

1945年8月9日、長崎市へ原爆(ファットマン)投下

人類史上実戦で使用された最後の核兵器。当時の長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。

1945年8月9日、ソ連対日参戦(ソ連侵攻)

満州国において開始された日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘である。。満州では戦中に約6万人、停戦後に約18万5000人が死亡したほか、北朝鮮で約2万8000人が亡くなった。混乱した満州では、肉親と離れて取り残された「中国残留孤児」や、集団自決などの悲劇が起きた。

1945年8月12日、麻山事件

麻山事件(まさんじけん)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決した事件。(引用元:麻山事件Wikipedia

1945年8月13日、小山克事件

小山克事件(しょうさんこくじけん)とは1945年8月13日に満州国吉林省で南満州鉄道京図線が九台駅と吉林駅の間の小山克で武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され集団自決した事件。
~ 夕刻に吉林盆地に抜ける小山克トンネルに差し掛かろうとしたところ、小銃で武装した暴民たちが線路を焼き払い待ち構えていた。列車がやむなく停止すると、暴民たちは客車に乱入し、鉄道公安官の拳銃を奪い取るとともに縛り上げた後、日本女性たちを車外に連れ出して輪姦を始めた。暴民たちは抵抗するものは射殺し、女性が抱いている乳児は窓から放り投げて殺害した。このため、100人以上の女性たちが崖から谷底に飛び降りて自決した。 ~(引用元:小山克事件Wikipedia

1945年、8月14日、葛根廟事件、牡丹江事件

葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が攻撃され、1,000名以上が虐殺されたとされる事件。
~ 浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は数百名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった。 ~
~ 生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。 ~
~
8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅から10キロのところにある鎮西駅にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。 ~(引用元:葛根廟事件Wikipedia

牡丹江事件(ぼたんこうじけん)は、1945年(昭和20年)8月、満州国東満省(現中華人民共和国黒龍江省)において日本人避難民680人がソ連軍機甲師団と暴民の襲撃により虐殺された事件。生存者は20人とされている。(引用元:牡丹江事件Wikipedia

1945年8月15日、詔書録音放送(玉音放送)

1945年(昭和20年)8月15日、藤井 治さんは湖南省に転戦、この地で終戦を迎える。

当初、関東軍鉄道第三連隊に配属された藤井 治さんですが終戦時、最終的に鉄道第一連隊に編成されていたと思われます。
鉄道第一連隊は湖南省で終戦を迎えたという情報があります。

鉄道連隊の歴史 習志野市
なお、桂林や湖南省方面の司令官には「焼くな・殺すな・盗むな」のいわゆる「三戒」で、一人も戦犯を出さずに本土に帰還できた、笠原幸雄陸軍中将が、1945年(昭和20年)4月、自ら野戦指揮官を希望して上月良夫の後任として支那派遣軍第6方面軍第11軍司令官に着任されています。

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