藤井 治(中国名 呉健華)氏の生涯 ~もうひとつの”わだつみのこえ”~ ③

このページは、2019年6月19日にYouTube公開された下記の「藤井一良の出生について「学徒出陣50年」蘇る”わだつみ”-戦後なき学徒兵の秘話(前半・後半)」から解説・証言等を引用して作成しています。

目次

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藤井 治(中国名 呉健華)氏の生涯 ~文化大革命から一時帰国まで~

文化大革命の期間中、批判大会が開催され藤井 治さんの首に看板をかけ批判したり、藤井 治さんの当時の日記では「日本鬼子(日本軍に対する憎しみ)」と罵られたりと記されていた。
また、日本のスパイとして身柄拘束され、家族の周 健清さん、長男の呉 也凡さん、次男の呉 亦凡さんも非常に冷遇な扱いを受け、釈放後は要監視対象の生活を強いられることになった。

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1972年は戦後決算の節目であり、5月には沖縄返還。
そして1972年(昭和47年)9月29日、当時の田中総理の訪中によって戦後27年目にして日中の国交が回復。
この時ばかりは藤井治さんも『大海原で岸が見えてきた!』と家族にその喜びを語ったと言います。

そして1972年(昭和47年)11月17日、山口県防府市役所に湖南省衡陽市に残留する藤井治氏からの手紙が届く。
『市役所の皆様』と書き出された手紙は家族の所在を問い合せ、これまでの苦労を書き連ねた内容でした。

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『私は戦争が終わった後、不思議な運命に委ねられて、中国に残って参りました。
解放前のあの頃の苦しさは非情なものです。
一緒の日本人とも離れ離れになり、生活は苦しく、家と通話する術もなく、家に帰ることなど全く考えることもできませんでした。』

山口県防府市の藤井 治さんの生家は戦後も一貫して息子の生存を信じ、死亡届の提出を拒んできた山口県内唯一の家庭と言われてましたが、手紙が市役所に届く三日前には死亡届の書類を受け取っていたほど、生存を諦めた矢先の出来事で当時、新聞でも取り上げられるほどでした。
1973年(昭和48年)10月、ついに藤井 治さんと日本にいる家族との電話による声だけの対面が実現。

その時の状況を姉の藤井 千代子さんはこう説明した。

『国交回復したと申しましたとしてもお互いの信頼状態が不安定な時代でございましたと見えまして、それで治が電話します時の、その後ろに長男を人質のように立たせ、その後ろに中国の兵士の方が銃を構えて、もし中国に対して不利な事を電話で話しをすれば、この息子を殺すって言ったって、その状態の下での電話』

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1973年(昭和48年)10月31日、中国在留邦人の一時帰国(里帰り)旅費を国が全額負担することを決定
1978年(昭和53年)8月12日、日中平和友好条約署名・調印(10.23批准書交換)
1979年(昭和54年)1月26日、中国からの帰国者に対し、語学教材の支給開始(昭52年4月以降の帰国者に支給)
1979年(昭和54年)6月5日、一時帰国経験者であっても永住帰国援護を行うこととした。

解説

文化大革命の悲惨さについては前ページの解説で紹介した福久かずえ さんの手記「スパイ容疑と国籍剥奪にさいなまれて!」からご紹介します。
六 青天の霹靂
身魂を投げうって活動をしていた、農村巡回医療隊の任務も一応終わって大連に戻ったときは、既に季節は夏が過ぎて秋も深まっていた。あの中国全土に吹き荒れた、忌まわしき文化大革命運動の嵐の真っただ中に入り込んでしまったのである。中国人としての国籍を得れば、一連の政治運動に参加しなければならなかった。このことは、否応なしに決められていることであった。
私には、それを避けて通れる道は無かったのである。戦争が終わり新生中国の揺らんの激動する時代を、中国の人たちと共に学び、共に働いて今日までやってきたのだが、私の勤務する大連児童医院にも、その文革の嵐は避けることなく、どっと押し寄せてきた。
病院内の至るところに、党内外の批判や意見などが発言されていたし、それを建議する「大字報」という壁新聞が、また至るところに張り出されていた。病院の本来の仕事である医療体制も、いつしか乱れてきて病院としての役目をなさなくなり、不気味な雰囲気を醸し出してきて、人々の毎日は戦々恐々としていた。
そんな状態が続いていた翌年の夏、文革の嵐は一向に収まらず、それどころか燎原の火の如くにエスカレートしていた。病院でも、「打倒、牛鬼蛇神(すべての妖怪変化どもを一掃せよ)」のスローガンの下に、疑わしげな知識分子を次々に捕まえては家宅捜索をしていた。病棟の一角に、「牛棚(牛小屋と称した偽りの小屋)」を作り、そこに捕まえた者を閉じ込めていた。そのころはまだ、私に対して矛先は向けられていなかった。私を摘発するような大字報は一枚もなく、罪人という感覚も、何らの抑圧も漢字ていなかった。
だが、九月に入ったある朝、いつものとおり出勤すると、二人の同僚が私を取り囲み、「今日は仕事をしなくてもよいから、人事科までちょっと来てくれ!」といつもの話しぶりと違って、威圧的な口調をして言ってきた。そして、私の言葉も聞かずに、薄暗い部屋に私を連れ込んで、いきなり「日本軍国主義分子」と言って私をののしった。私に対して、「日本の特務(スパイ)」だという嫌疑を掛けたのだった。その場ですぐに隔離された。ついに私は、私の人権と自由を剥奪されるというはめに陥ってしまった。突然のことでもあり、いくら考えても自分の身に、やましいこともないので頭の中は真っ白になり、目の前は何もかも真っ暗になってしまった。
政治迫害であることは知りながら、でも何故に私に対してこんな侮辱を与えるのかと、考えれば考えるほど、情けなく、悔しかった。反論する機会も与えられず、法律に訴えるということも許されなかった。このことは、まさに青天の霹靂であった。我が身に降りかかってきた災禍は、どこから降って来たのか分からなかったが、少し気持ちが落ち着いてからよくよく考えてみたら、それは私が日本人であるが故だった。
あの過去の戦争の歴史を背負って今日まで生きてきた私は、「災禍從天降臨(禍は天から降りかかる)」という昔から中国に伝わる諺の意味が、痛いほど身にしみて分かった。

七 心の痛手
七ヵ月もの間、私は小さな薄暗い牛棚の一隅に閉じ込められていた。時間は、ただいたずらに過ぎていった。冷たいコンクリートの床の上に、薄いいわら布団を一枚敷き、その上にいちまいの毛布にくるまって、ひと冬を過ごしていた。昼は重労働を強いられ、夜は尋問というより拷問の毎日だった。
「お前の父親は元日本軍の軍人で、中国人を殺した。その罪悪を白状せよ」と言って、ムチを床にたたきつけながら脅し続けたが、私はどのような脅しを受けても、びくともせずに「正義は常に我にあり」と心に決めて平然として座り込み、一言も反論することをしなかった。
牛棚では毎朝、起きるとまず最初に、薄暗い電灯の下で「毛主席語録」を唱えさせられ、次いで毛主席の肖像の前にぬかずいて、党への忠誠を誓わされた。そして、朝と晩の二回、民衆の前に引きずり出された。広場では同時に、銅鑼が打ち鳴らされて民衆をあおった。引きずり出された者は、紅衛兵や、民衆の言うなりになって引き回され、棒で打たれ、背中を足で蹴られて、体中を小突かれた。
批判闘争の場では、「日本の鬼子」といって罵倒された。しかし、その「鬼」とは、過去に中国の民衆を苦しめ、泣かせた日本の姿であったことに思いをいたし、このことに対しては、私は少しも反抗をしなかった。
~三ヵ月間は、病院内の便所や、病棟の清掃作業をさせられた。しかし、文化大革命のもたらした後遺症は私だけにとどまらずに、我が最愛の長男と、次女にまでその累が及んだ。長男と次女は、下放青年として五年間の農村での強制労働に送られ、大学受験の資格さえ逸してしまった。就職や結婚問題にまでその影響が及んでしまった。家族の受けた精神的な打撃は、想像以上のものがあった。

と書かれているので、藤井 治さんの孫にあたる中国残留邦人三世の藤井 一良さんのブログ「藤井一良の風評被害対策ブログ(アルファアイティーシステム)」の【私の出生の詳細について】の中で書かれている「1966年の文化革命により、祖父治は「日本のスパイ」であるという事実無根の嫌疑をかけられ、身柄を拘束され、その後は家族(祖父治妻、息子(私の父))も非常に冷遇な扱いを受けることになります。」に見事に一致する。
だが、国交正常化の後に実現した電話での対面では長男を人質にされるなどの状況があり、その時点でも要監視対象だという事がわかる。
中国残留邦人、中国残留婦人、中国残留孤児の方々による手記は数多く残されていて、当時の悲惨さも同じように語られているので是非、手に取って読んで欲しい。

 

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