李氏朝鮮時代の支配層である両班と人として扱われず日韓併合で解放された奴隷階級の人達

奴婢

朝鮮半島を語るうえで、李氏朝鮮時代は外せない。
韓流ドラマの時代劇の服装は李氏朝鮮時代の服装だったりする。

服装に関して、よく李氏朝鮮時代は染色技術が無かったと思っている保守層がいると思うが、それは間違いである。
実際の当時の染色技術は限定されており、庶民はもちろんのこと、両班などの特権階級の人たちも普段は白い服をもっぱら着用していた。
王族や両班の中でも上級な者、結婚式などでは色物を着用している。
但し、鮮やかな色物は高級であり、お金のない両班や下級階級の人らは薄い色物であったり、白だけだった。
服が白くなったのは李朝以降で顕著となり、その理由は染料や染色技術の有無によるのではなく、実は儒教思想の影響であるとされている。

朝鮮半島の日本統治を植民地支配とする論争では、李氏朝鮮時代・大韓帝国時代と比較することが多いので、李氏朝鮮時代はどのような身分・階級制度であったのか解説したい。
まず、身分・階級制度をを大きく分けると以下の通りになる。

良民(両班・中人・常人)
賤民(奴婢・白丁)

李氏朝鮮時代と日本統治時代を比較する上で、重要なのは良民に属する両班と賤民になるので後述する。

先に「中人」を説明すると、低い官職の役人や医官、技術者などの家系がコレにあたる。
科挙の受験資格を持ち、金銭的に余裕があれば郷校に通うことも出来たという。
郷校とは、各地方の文廟のことで、孔子を祀る廟とそれに付属した学校・教育機関のことで、李氏朝鮮時代では儒教とくに朱子学が重要視されていた。
医官や訳官の様な職種は、その専門性から世襲されることがほとんどで、これらの役職は科挙の中の雑科を受験することで官吏に登用された。
学問の領域が儒教に限定されていた両班とは違って、雑学の対象である外国語や医学、法律、天文学から数学など、広範で実用的な学問を究めることが可能だったため、実際に国家を維持・構成する上で大切な役割を果たしていたが、現実には両班よりも下層に止まらざる得ない身分制度の掟に縛られていた。

ちなみに父が両班に属して、実母が良人の場合、その子供は両班ではなく実母と同じ良民階級となり、両班になれる文科への道が閉ざされていた為、雑科を受験することが多かった。この特異な階級制度は中人だけではなく、両班と奴婢との子供も対象になるという産まれた時点で人生が決まるという最悪な制度であった。

次いで「常民」は、一般的な通常の庶民のことで、農業・工業・商業などに携わる者たち。
但し、原則として勉学の道を歩むことは禁止されており、科挙の受験資格も有していなかった。
当時の農業従事者や商工業者の大部分が常人とされる身分で、国の人口に占める割合が最も多かったのがこの階級。
納税義務や軍役義務が課せられていた為か形式的には科挙の受験資格を有していましたが、現実では時間的にも金銭的にも受験する様な余裕はなく、仮に合格したとしても大きな登用差別があった為に、官吏となれる者はまずいなかった。
良民とされる常民でさえも、これらの人々の生活はとても厳しく、重い税に苦しめられ、家業の成功などで裕福となることを除くと上位の階級に這い上がれる可能は皆無だった。
また、貧困などの理由で下位の階級に転げ落ちる危険は常に迫っていたと云える階級でもあった。

最後に「賤民」についてだが、詳しくは両班の後に後述するとして、この階層は奴婢(使用人)、倡優(芸人)、僧侶、巫女などのことで、更に白丁は動物の屠殺等に従事する者などを指し、最下層の民とされていた。
何故、僧侶もこの階級なのかと言うと、儒教を尊び仏教を弾圧していた李朝では、僧侶は常人より低い地位に置かれていた。

別段だが、日韓併合を実現するため日露戦争でも陰ながら助力した朝鮮人の政治結社「一進会」の入会者の多くは常民、賤民が多かった。
生まれながらにして労働者階級、奴隷階級で成り上がることもできない両班らの支配層が形成した李氏朝鮮社会を打破したいと考えていた者は「一進会」に約80万から100万人が入会されていた。
また、「創氏改名」も労働者階級・奴隷階級の者たちが殺到している。

両班

良民の中で、最上級が「両班」であり、両班は、科挙によって登用される文武の高い官職や儒教の学者を親族の中から出した一族のこと。

両班

両班(両班の中でも、かなり上級)

両班は高麗に始まり、李氏朝鮮王朝では官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになり、政治的にも経済的にも支配者階級を形成した。
村落社会での警察権も付与され、文化面でも知識人として郷村の指導的役割を担っていた。
科挙に合格するものは両班出身者が多く、また科挙に合格できなくとも、彼らは地主として地方で支配的地位を維持できたとされる。
司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』で次のように述べている。

李朝のころ、ソウルにおける両班とはつまり大官たちである。在郷の両班は日本でいう郷士のようなものだが、郷士よりも権威がある。特権階級であるとともに、李朝のころは朝鮮人民を儒教で飼いならしてしまうための、『儒教の神父』のような役割をもっていたということができるのではないか。

両班は王族の次の身分として享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため「朝鮮の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。
1897年に朝鮮半島を訪れた「朝鮮紀行」の著者であるイザベラ・バードと、1874年に「朝鮮教会」を著したフランス人司祭で宣教師のクロード・シャルル・ダレが1874年に著した「朝鮮教会史」の序章で、このように述べている。

朝鮮の災いのもとのひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけかき集め引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。

当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総員1万7,600人のこの大集団は『生活給』をもらわず、究極的にくいものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に『搾取』するのである。

朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である
朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。両班のなかでもっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。

両班が首尾よくなんらかの官職に就くことができると、彼はすべての親戚縁者、もっとも遠縁の者にさえ扶養義務を負う。彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、彼は一族全体を扶養する義務を負う。もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、自ら金銭を得るために様々な手段を使う。ほとんどの場合、守令の留守のあいだに、彼の部下である徴税官にいくばくかの金を要求する。もちろん、徴税官は、金庫には金が無いと主張する。
彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎとる。のちに守令がこの事件を知っても、掠奪行為に目をつむるだけである。官職に就く前は、彼自身もおそらく同様のことをしたであろうし、また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」

両班は勤労を蔑んでいたので、体を動かして汗を流すことを忌み嫌ったともされ、日頃から武班においても武官・戦士としての訓練や鍛錬などは全くされておらず、この為に名ばかりの軍隊しか持たない李朝の軍事力は極めて脆弱であったと言われている。

世宗大王がハングル(訓民正音)を愚民は漢字の読み書きができないから作るとした際に猛反対したのも、朝鮮総督府が戸籍制度を導入する際にデモをしたのも、両班らの上級階級らであった。
抱えている奴隷階級の人らは、両班らの財産であり人身売買や女性であれば性奴隷にされていたほど、下級階級らに対しての差別は酷く、朝鮮民族由来の差別意識は李氏朝鮮時代に形成されたと言っても過言ではないだろう。

賤民(奴婢・白丁)

一般的には奴婢のことを指すが、広義にはより下層の階級とされた白丁なども含まれている。
奴は男性の奴隷を意味し、婢は女性の奴隷のこと。
彼らは一種の財産と見做されて売買や相続などの対象となっており、この階層の人々は李氏朝鮮初期においては全人口の30%程度ほどを占めていたと言われている。
良賤交嫁を想定して身分制度を維持するため、1039年、高麗王朝(靖宗の治世)で婢女が生んだ子供は主人(非賤民)の所有物とされ、生母が賤民ならば子供も奴婢とするという、「賤者随母法(奴婢随母法)」が定められた。官吏は8世代に渡って家族に奴婢がいないことが証明できないと登用されないとされ、この高麗で完成された随母主義の原則がその後も李氏朝鮮では引き継がれた。

奴婢

奴婢

白丁

白丁

奴婢は、奴婢の子、捕虜、犯罪者、窃盗犯、逆賊の妻子で賤民に落とされた者、借金の抵当などさまざまであった。
しかし最も数が多いのは王朝が滅亡した時で、百済滅亡時には百済の民はいずれも奴婢とされた。
1300年にモンゴルから高麗の征東行省に派遣されていた皇族の闊里吉思は、高麗の国政への介入の一環として高麗における奴婢制度の廃止を求めたが、ときの国王だった忠烈王は「わが始祖は賤類とは種類が違う」と言って拒否した。

奴婢には、公賎・官婢/公奴婢と、私賎/私奴婢があって、公奴婢は王宮や官庁での仕事に従事する者たち(公有財産)を指し、私奴婢は両班等の富裕層の所有物(私有財産)である。
また官婢の中でも、特に王族や朝廷が功臣に下賜した奴婢は丘史(クサ)と呼ばれた。
そして、奴婢の中にも更に細かく分けられた階層があったとされ、李朝第4代の世宗の時代に領議政(後述)を務めた黄喜という人物が、「七般賤人」を定めた。
1. 官庁の使用人である皁隸
2. 罪人の処刑人である羅将
3. 地方官庁の門番などを勤めた軍奴の日守
4. 舟のこぎ手である漕軍
5. 水軍に属する兵卒・水軍
6. 狼煙を上げる役をになった烽軍
7. 三十里ごとに置かれていた駅の従事者である驛

その他の定義として、
1. 官庁や両班の使用人の奴婢
2. 酒席・宴席で歌や踊りを披露し風流に興をそそることを職業とする女性・妓生
3. 輿の担ぎ手
4. 唐風の革靴を作る鞋匠
5. 楽師や廣大をあらわす伶人
6. 廣大仮面劇や綱渡りをしていた芸人
7. 朝鮮固有の巫女、巫堂
8. 官庁の使用人、使令
9. 国教でなくなった仏教の僧侶
10. 革製品の加工を生業とした生皮匠・カッパチ
11. 最下層の民とされる食肉加工を生業とした白丁

奴婢は住まい及び結婚、職業の選択の自由に制限を受けているが、人として扱われなかった白丁は更に酷い扱いをされていた。

①族譜を持つことの禁止。
②屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工(編笠、行李など)以外の職業に就くことの禁止。
③常民との通婚の禁止。
④日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
⑤瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
⑥文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
⑦他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
⑧名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
⑨姓を持つことの禁止。
⑩公共の場に出入りすることの禁止。
⑪葬式で棺桶を使うことの禁止。
⑫結婚式で桶を使うことの禁止。
⑬墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。
⑭墓碑を建てることの禁止。
⑮一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

よく、白丁らの身分が甲午改革(1894年)で、廃止されたとは言われているが、その後もこの身分は実質的には続き、日韓併合の1年前、1909年に戸籍制度が導入されたが、それでも差別はずっと続いていたことが示す歴史的な出来事が、差別撤廃を目的として朝鮮衡平社が設立されたことである。
このように、歴史を振り返って見ても日韓併合後も朝鮮人を差別し続けていたのは同胞である朝鮮人であり、日韓併合によりそれまで迫害・差別されていた奴隷階級の人達を解放したのは歴史的事実である。

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