満州国の五族協和を願った協和語の実態

今回、五族協和を理念に建国された満州国では何の言語を使われていたのか調べたところ「協和語」と呼ばれる「ピジン語」という言語が使われていた事が分かる。
大体、どのようなものかというと、このような内容である。

ニーデ、トーフト、イーヤンデ、ショーショー、カタイカタイ、メーヨー?
(你的、豆腐と、一样的、少少、固い固い、没有?)
直訳「あなたの、豆腐とおんなじでちょっと固いもの、ない?」
意訳「コンニャクはない?」

ニーデ、チャガ、ダイコン、ナカ、トンネル、ターター、ヨーデ、ブーシンナ!(你的、这个、大根、中、tunnel、大大、有的、不行哪!)
直訳「あなたの、このダイコン、なか、トンネル、大々的に有る、ダメよ!」
意訳「このダイコンには鬆(す)が入(い)っているわ。値段を安くして」

トンネル、メーヨー!(tunnel、没有!)
直訳「トンネル、ない!」
意訳「鬆なんか、入っていませんよ」

現代の人が、協和語の話し方をリアルで聞いてみたら少し笑ってしまうが、このような話し方が飛び交っていたのが満州国だった。ちなみに「私、中国人アルヨ」も協和語らしい。笑

しかし、この満州国での「ピジン語」は満州国が建国(1932年)してから、できたものではなく、建国以前から存在して使われていたとされており、その時期はおおよそ日露戦争の講和を定めたポーツマス条約(1905年)により、日本が遼東半島を租借して、南満州鉄道の権益を得た時から日本語と中国語が交じりあったと見られている。

ちなみに、1895年の日清講和条約(下関条約)で、清国から遼東半島全域が日本に割譲されているので、一部ではこの時期からとされているが、同年1895年の露仏独の三国干渉により清にこの地を返還されているので、この時期に中国語と日本語が交わった可能性は低い。

なお、翌年の1896年に皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席した清国欽差大臣の李鴻章が、ロシア外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーと、財務大臣セルゲイ・ヴィッテと会談して、50万ルーブルの賄賂を得て、日露戦争を引き起こした原因とも言われる露清密約を結んでいる。

遼東半島

遼東半島

満州国の「ピジン語」は「協和語」という呼び方以外にも、色んな呼び方がされていたと言われていて、日本の日本語言語学者である金水敏 氏は、こう述べている。

「兵隊支那語」「沿線官話」「沿線支那語」に類似した概念として「協和語」「日満親善語」などというものがあった

だか、「類似した概念」がどういうものであるかや「概念」の異同は何なのかは明らかにされていない。
ここで、その時に何という呼び方をされていたのか見てみよう。

日支合弁語(1924年)
中谷鹿二 氏は「満州日日新聞」に、1924年2月 11日〜1924年3月28日までの間に、34回にわたり「正しき支那語の話し方と日支合辦語の解剖」を連載していて、その第二回(1924年2月13日)の中で、こう述べている。

支那語と日本語の混合した前記の如き妙な言葉で、仮にこれを「日支合辦語」と命名した。
「日支合辦何々洋行」又は「日支合辦何々銀行」のある今日、こういふたとて妥当を欠くやうなことはあるまいと思ふ。

「洋行」は内田小太郎 氏が1910年に中国大連で創業したお店(内田洋行)のこと。(引用:内田洋行の創業)また「洋行」は中国語では“外国人の店”という意味がある。

中谷鹿二 氏はその後、大連で中国語学習雑誌「善隣」を刊行したが、その中でも一貫して「日支合弁語」を使っているが、内容を見るに企業の看板がそうなっているだけであるし「日支合辦」が資本関係から、そうなってる可能性もある。

ぽこぺん支那語・ぽこぺん語(1932)
中谷鹿二 氏が主宰する雑誌「善隣」では、さまざまな人が寄稿していて小田切槇雨という人物は連載コラム「支那の性格」第40回の題名を「ぽこぺん支那語」として、次のように述べている。

よく日本の奥さん連中が野菜屋の支那人と半可通な支那語で話しするのもこの「ぽこぺん支那語」と云ふ場合がある。
この半分日本語半分支那語の「ぽこぺん語」も實は支那語専門家より云はしむれば全く嫌厭もので唾棄せらるべきものとされて居る。

中谷鹿二 氏の主宰する雑誌に寄稿する人物が、中谷鹿二 氏の用いた「日支合弁語」を使っているわけではなく、人それぞれ様々な呼び方をしていた様子が分かる。

ただ、これらは中国語と日本語の話であって、五族協和の理念で建国された満州国では様々な民族が暮らしており、特にモンゴル(蒙古)人達の言語はどのようになっていたのか、満州国の学校教育から見てみたいと思う。

満洲国建国前の関東州、満鉄付属地内では日本語教育は各レベルの学校で展開されていた。
しかし、満洲国が発足された後、日本国内からの農業移民をはじめとする渡満人口が年々増え、満蒙終戦史(1962年)によると敗戦当時は既に合計166万人に達していたとされている。

「九一八事変」後、中国東北地方を占領した関東軍は日本の利権を最大限に確保し、また 世界中の非難を避けるために、当初「満洲国」の学校教育に日本語を導入せず、しばらくは 中華民国の教育制度をそのまま援用せざるをえなかった。
学校教育では中国語と日本語が併用され、小学校で日本語の授業が始まったのは 1934 年であり、三年生以上の児童に週に2コマを実施した。

したがって、同時期の中国語、英語と比べて、むしろ日本語は劣勢的な地位にあった。しかし、1938年1月の新学制改革に基き、中国語(当時は「中国語」のこと を「満洲語」または「満語」としながら、満洲民族の固有言語を「固有満洲語」として区別 した)、日本語、蒙古語が「満洲国」国語と定められた。

学校教育では三言語の内の二言語を勉強すべきだとの規定があったが、中国語、蒙古語の どちらを選んでも、選択肢の中には必ず日本語が入る。
しかも、日本語の授業は一年生から 必修科目になり、週に8コマあるいは10コマまで増加し、中国語授業の時間数の2倍となった。
つまり、この時期から学校教育では日本語は既に中国語以上の地位を有するようになった。
この背景にはあるのは、石原莞爾と同じ満州事変の首謀者であり部下だった、板垣征四郎が満州組の総帥となっており、陸軍次官の梅津美治郎が統制派の総帥だった東條英機を自分の後任次官にさせていた。
1938年に石原莞爾が東條英機との対立から参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられた時期である。

このように見ると、1938年を境に、それまでは満州語(中国語)、固有満州語(満州族の言語)、蒙古語(モンゴル語)、日本語と分けられていたように、石原莞爾が考えていた「王道楽土」「五族協和」から後に、関東軍の傀儡国家といわれるようになってしまった様子がわかる。

まとめ

五族協和の理念から、言語の実態は民族の言語がなされ、民間同士の中で生まれた話し方(ぽこぺん語など)があり、それを協和語としていた。
学校教育も当初は民族の言語学習があったが、権力争いや日本政権争いの結果で変わった。

なお、国籍に関して日本人以外が満州国で産まれた場合、満州人となり、日本人が満州国で産まれた場合は諸手続きで日本国籍となる。
これは日本人移民を多く受け入れるための施策であったとされている。

引用:満州ピジン中国語と協和語
引用:「満洲国」における言語接触

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