【ハングル完結版-下-】ハングルの礎を気づいた貢献者の中に数名の日本人がいた

本記事は下記記事の続きになります。
ご覧になっていない方は一読して頂けると幸いです。

朝鮮民族のハングル識字率

李氏朝鮮時代の識字率についてだが、李氏朝鮮時代の識字率調査は日韓併合後の朝鮮総督府(日本政府)の識字率調査とは異なっており、その差から識字率が増加した!とするのは少し無理がある。

また、日韓併合まで文盲だった!とするのも、訓民正音の公布前と公布直後なら民衆が文盲(ハングル)なのは間違いは無いが、李氏朝鮮時代末期や大韓帝国時代まで文盲というのには無理ある。

まず、日韓併合から1945年9月9日に朝鮮総督府が降伏文書に調印するまで、朝鮮民族のハングル識字率が増加した事は間違い無いだろう。
例えば、拓殖大学国際学部教授の呉善華 氏は著書『日韓併合への道 完全版』で、こう述べている。


「1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。」

この間の識字率増加は、恐らく左派で識字率について調べた人も「やや増加」「ゆるやかに増加」と言う答えになっているはず。
増加の理由は後述しよう。

では、日韓併合以前はどうだったのか。
よく左派が識字率や文盲説で、イザベラ・バードの「朝鮮紀紀行」を引用するので、それを基に解説したいと思う。

イザベラ・バードが李氏朝鮮を訪れたのは1894年から1897年にかけて李氏朝鮮末期を4度訪れている。
世宗大王が「訓民生音」を公布したのが1446年であるから約450年後の識字率をこのように述べいる。

上流階級の女性は諺文が読めるが、女性の識字率は極めて低く、1000人に2人 〜 漢江沿いで出会った下層階級の男たちの多くは諺文が読めた 〜

ハングル公布から約450年後で女性の識字率が1000人に2人というのは異常であり、この時の下流階級の朝鮮人女性は文盲であった事がわかる。

この理由として、李氏朝鮮時代は約500年間も儒教、とくに朱子学が盛んで、どっぷり浸かっていた事もあり、男性が下流階級から脱して出世するには儒教が必須であり、女性は家庭に入り家事を切り盛りし、そのような男子を産み育てる事が儒教的にも良妻賢母とされていた。
いくら元気な子供を産んでも、それらができなければ無能とされていたので下流階級の女性はハングルよりも儒教、花嫁修業が重きに置かれていたので当時でも、ハングルの識字率は文盲レベルであった。

学校の数も圧倒的に少なく、日本で言うところの寺子屋にあたる書堂に通う人が多かった。
書堂は、両班(高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分)の子弟しか通えない書堂の他に、有志が私財をもって近隣の子らを無料で就学させてた書堂や、奴碑(奴隷)階級だったもの達にも就学を許した開放的な書堂も数は圧倒的に少ないが存在した。

当然、通っているのは専ら男性であり、少しずつではあるが、男性の中でハングルが広まり、イザベラ・バードが訪れた1894年頃には多くの下流階級の男性がハングルが読めるようになっていたが、下流階級の女性は変わらず文盲と言えるほどの識字率の低さだったという事になる。

ちなみに書堂では女性にも教えていたとする情報もあったがソースが無く、仮に女性にも教えていたとするならイザベラ・バードが述べた識字率にはならないだろう。

上流階級になれた男性は没落しないよう事大主義(強いものに従うというもの)がほとんどだったと言われている。
その為、国王がハングルを作って公布し、王族が使っていれば上流階級も覚えて使わざるを得ない。だから、上流階級の男性や女性は読み書きができたという事だ。
事実、上流階級が送ったとするハングルの手紙や書簡が残されている。

そして、日韓併合後には戸籍制度を導入して姓も持てない奴碑(奴隷)階級や人間とは見なされなかった白丁も戸籍が与えられ登録されるようになった。
学校が増設された、義務教育となった、ハングルは必須科目になった、女性も元奴碑(奴隷)階級も白丁も学校に通えるようになった。
以上の観点から日韓併合以前よりも、日韓併合後のハングル識字率は改善され、増加したと言って良いだろう。

ちなみに1504年、李氏朝鮮の第10代国王の燕山君の暴政を誹謗するハングルの張り紙が各地で発見された為、燕山君はハングルの教育や学習を禁止、ハングルの書籍を焼却、ハングルを使用する者を弾圧し、世宗大王時代に設置されていた正音庁は1507年に閉鎖したが、ハングルは民衆の書記手段として密かに使われていた。

別段だが、奴碑(奴隷)階級の人達の人身売買はされていたので、日本統治下にて朝鮮民族による同族の人身売買が無かったとは否定できない。
日韓併合があったからこそ、奴碑(奴隷)階級の人や人間として見られなかった白丁の人らが現代の人と同じように姓が名乗れるようになり、学校に通えて、人として生活できるようになった訳で、これを欧米列強のような植民地支配と同列に語られる事が、私には到底理解ができない。

ハングルを完成・普及させた人物

現在、北朝鮮も韓国も日本統治下において1933年に出された「朝鮮語綴字法統一案」を基に韓国では「ハングル正書法」、北朝鮮では「朝鮮語綴字法」「朝鮮語規範集」を出しているのだが、日本統治下において左派はよく「ハングルを奪った」等と言うが、朝鮮総督府は朝鮮語の綴字法に対して普及しようとしていた事は、1912年4月に出された 「普通学校用諺文綴字法」から、1921年3月に 「普通学校用諺文綴字法大要」、1930年2月に月に 「諺文綴字法」と改定された、一連の綴字法規定が存在することが証明する。
そして最後の 「諺文綴字法」は「朝鮮語綴字法統一案」の基になっており、一連の綴字法規定には周時経の弟子と数名の日本人が携わっている。

多くの保守系ブログでは、携わった日本人と諺文綴字法の画像しか掲載していないので、左派の主張する「ハングルを奪った」等の主張を根底から覆す事ができないため、どのように作成されたのか一橋研究の三ツ井崇氏の「朝鮮総督府「諺文綴字法」の歴史的意味 : 審議過程の分析を通して」から一部抜粋・編集して紹介したい。

【普通学校用諺文綴字法】
最初の「普通学校用諺文綴字法」は、1912年4月に発表された第一回目の綴字法であったが、「表記法は表音主義に依り、発音に遠かれる歴史的綴字等は之を避けたり」として規定の大原則は音声主義に置かれ「活用語の活用語尾は可成語の本形と区別して書く」とされていた。
では、どのような審議過程を経て作られたのか、1911年の『朝鮮語調査報告書(稿)』の内容では、審議において「漢字音タル ト 純粋朝鮮語タル ト ヲ問ハズ一切 ・ ヲ使用セズ ト ニ一定スルコト」とされ、・の使用に関して妾華錫ひとりが朝鮮固有語のみに限定するよう反論を出し採用。
その他に「訓民正音」の例義どおり採用したものも議決されており、このときの委員でもあった魚允過が、「実に国文製作の原理原則」であるとして、使用に賛成している。
こうして朝鮮人学者の少数意見も採用されているように、かなりの部分で実際の綴字法規定に反映されている。
(引用:「朝鮮総督府「諺文綴字法」の歴史的意味 : 審議過程の分析を通して」のⅠ.審議過程における綴字法観の対立 1.挫折した形態主義一第一回綴字法一から。)

普通学校用諺文綴字法

普通学校用諺文綴字法は、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法で、朝鮮総督府では韓国併合後、普通学校(朝鮮における初等教育機関)での朝鮮語教科書に用いるハングルの綴りを整理・統一する目的で綴字法を定める事にした。1911年7月28日〜11月にかけて5回の会議を行ない、1912年4月に綴字法を確定させた。
第一回綴字法の調査委員は以下の通り。

【普通学校用諺文綴字法大要】
第一回の綴字法は教育上の混乱を解消するにはいたらなかったため、同年3月14日~17日の四日間、普通学校用諺文綴字法調査委員会を設置・開催し審議を行った結果、定められたのが「普通学校用諺文綴字法大要」である。
綴字の原則は、第一回と同じく「表音主義」を標榜しているが、全体的に第一回目の綴字法とほとんど変化していないかわりに、適用範囲が普通学校のみから高等普通学校程度まで拡大している。
また、二回目の改正にあたって各委員の意見調整が難航し、当局側も苦労したとされている。

もっとも、このたびの改正にあたっては、各委員の意見調整が難航し、当局側も苦労したようである。
その審議の混乱ぶりは、1921年3月19目付の『毎日申報』が端的に伝えている。
記事では、各委員の見解の傾向を「創設時どおりにしようとする」保守主義、「現在おこなわれているとおりにし、若干の不完全さをあらためようとする」現行主義、「この両者を折衷する」折衷主義に大別し、「総督府の意向も折衷主義に賛成する模様」と伝えている。

こうした個別の論点をめぐる見解の対立は、言語観の相違にもとづくものであった。
とくに、『訓民正音』の例義にしたがって、字母の一切の加除を認めないとする規範主義的・伝統主義的な魚の言語観と、言語学の音声主義の観点から、「各地言語を綜合して慎重な調査をおこなったのち」に統一すべきとする記述主義的な小倉の言語観は真っ向から対立した。

以上を見ても、きちんと議論をしており、日本側の意見だけ通った訳ではないのが分かる。
欧米列強のような植民地支配であれば、このような議論は起こることはなく、現行の日本国憲法のように占領国が作成して押し付けたであろう。
また、小倉の「各地言語を綜合して慎重な調査をおこなったのち」に統一すべきという主張は現代の観点から見ても当然の主張であることが分かる。
第二回綴字法の調査委員は以下の通り。

【諺文綴字法】
諺文綴字法は「朝鮮語読本二採用スベキ諺文綴字法ハ、各学校ヲ通ジ之ヲ同一ナラシムルコト」と定められており、より上級学校の朝鮮語教育においてもそれを適用することを明言しており、また学校教育面以外の使用をも念頭に置いていたので「社会二行ハルル諺文綴字法ノ現状ヲ産革シ」述べている。
名前から普通学校の文字が消えたのはそのためである。

第三回綴字法大委員会の開催に際しての松浦鎮次郎(学務局長事務取扱)のあいさつ文を見てみたい。

凡そ言語は国民文化の進歩に伴って変遷して往くものでありまして、之を表現する綴字も亦之に随伴して改良せられるに至りますことは、敢て言を侯たぎる所であります。
故に文明諸国に於ては、時運の推移と学理の進歩とに応じて、言語表現の綴字を改良して国民の使用に適せしめて居ることは、今更申し上ぐる迄もないのであります。〔・・・〕
朝鮮語の変遷に伴ふ諺文綴字法の改変に至りましては、諺文使用者の独自の見解に基いて之を行ったと云ふ状態で経過致しましたるが故に、今日では帰一する所を知らざる状態に陥ったのであります。
斯る現状にある諺文綴字法を適当に整理し統一することは諺文の普及発達の上から申しましても、又朝鮮文化の進展の上から申しましても、実に緊要の事であると存ずるのであります。
〔・・・〕該案は世人に劉切なる綴字法として、広く社会に慣用せらるゝに至り、以て諺文法の現状を萱草するに、一層効果あるものたらしめんことを期して居るのであります。

このようにいかに朝鮮文化、朝鮮民族のことを考えて諺文綴字法を作製したのかが手に取って分かる。
そして、諺文綴字法の特徴は、それまでのものと比べて、形態主義的な表記法を広く導入したことであり、これは調査委員に権悳奎、申明均、沈宜麟、鄭烈模、崔鉉培といった周時経門下の形態主義派の学者が多く加わり、彼らの意見を受け入れたものと推測される。
ただし、形態主義に対する表音主義派の反発も根強かった(その理由は後述する)と見られ、諺文綴字法に見られる形態主義の不完全さは両派の確執の産物ともいうべきものであった。
このため形態主義派はその後、朝鮮語学会(現・ハングル学会)を舞台にして、形態主義的な表記をさらに進め、1933年に「朝鮮語綴字法統一案」を定めることになる。

第三回綴字法の構成委員は以下の通り。
第一回から第三回まで多くの朝鮮人が構成され、数名の日本人も委員に名を連ねている。
以上の通り、現代の韓国の「ハングル正書法」や、北朝鮮の「朝鮮語綴字法」「朝鮮語規範集」の基になった「朝鮮語綴字法統一案」は、朝鮮人と日本人との度重なる会議の末にできた「諺文綴字法」を基に制作された事が分かる。

ちなみに以下のように、時系列も滅茶苦茶で歴史的背景も理解していない者がこのように指摘してくるが、まったく分かっていない。
また、このような指摘は逆に朝鮮人を蔑視させるネタにされるため、私からすると止めるべきだと指摘しておきたい。


まず、諺文綴字法は日本で言うところ国語の教科書みたいなものである。
「諺文綴字法」が定められたのは1930年で、併合した年が1910年であるから約20年の差がある。
この約20年の差を埋めるために「諺文綴字法」は学校教育面以外の使用をも念頭に置いて普通学校以外の、より上級学校に適用できるようにし、更に学校教育以外でも使用できるようにと作られたのだろう。
つまり「諺文綴字法」が定められた当時、朝鮮民族はハングルを現代のように完璧に使えなかったと言う事になる。
なぜなら、「諺文綴字法」が出来た時でもハングルの形態主義的な表記は不完全であり、その後に朝鮮語学会を舞台にして、1933年に現代の韓国の「ハングル正書法」や、北朝鮮の「朝鮮語綴字法」「朝鮮語規範集」の基になった「朝鮮語綴字法統一案」が出されたからだ。

「朝鮮語綴字法統一案」を定めた1933年から上記、ツイートで挙げてる1942年まで9年の年が過ぎており、「諺文綴字法」でも12年である。
これは日本の小学校1年から中学生卒業までの年月になるのだが、上記のツイート主はそれを理解しているのだろうか?

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私からすると、このツイートは朝鮮人は朝鮮語を必須科目にしないと習得できない民族と言っているようなものである。
それに左派が、日本統治下での識字率は上昇していない!と言うが、識字率が上昇していないとおかしいのだ。
日韓併合後、戸籍制度が導入され身分関係無く学校に通えるようになり、義務教育になり、朝鮮語が必須科目となっていたのに朝鮮語の識字率が上昇していないと指摘するのは、朝鮮民族は朝鮮語を文字にしたハングルが覚えられない民族と嘲笑されるのを理解した方が良い。

なお、別段だが1942年は朝鮮語学会事件が起きており、多くの周時経の弟子らが逮捕された年でもある。
周時経は1895年に徐載弼、李完用、李承晩らと共に開化派による運動団体独立協会を立ち上げている。
また、周時経はチュチェ(主体)思想の基になった朝鮮民族主義歴史学を最初に提唱した「申采浩」と1908年に「家庭雑誌」を創刊している。
申采浩は李承晩ら独立派と関係深く繋がっていた。

朝鮮民族主義歴史学は別途詳しく記事にするとして「周時経」「申采浩」「李承晩」が繋がっていたのは記憶の片隅に置いておいて欲しい。

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