【ハングル完結版-上-】ハングル創製した世宋大王は純粋な朝鮮民族では無かった。

「ハングル」は朝鮮語を表記するための表音文字である。

当初は「訓民生音」と呼ばれてたが、言いたい事も言えず書き表せない民のために作った事から「諺文(おんもん)」と言われるようになり、現代のように「ハングル」と言われはじめたのは諸説あるが文献では1912年頃の日本統治時代。

「ハングル」は、大韓帝国の「韓(ハン)」と「文字(グル)」が由来と言われている。

1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗大王が、それまで使用されてきた漢字が、朝鮮語とは構造が異なる中国語表記のための文字体系であるために、多くの民衆たちが学び使うことができない事実に鑑み、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。

世宋大王

世宗大王(1397年5月15日 ~ 1450年3月30日)

世宗(セジョン、せいそう、せそう、세종、1397年5月15日 – 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である 。
姓は李、名は祹(文字は示へんに陶の旁)(ド、도)。
即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれていた。仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。
高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった。
晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになり、1450年53歳で薨去。
引用:世宗 (朝鮮王)

しかし、事大主義(強い勢力に付き従うという考え)の重臣や両班(官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。)から反発され、中には自決してまで止めようとした者もいたほど。中でも集賢殿副提学(世宗大王が作った諮問機関)の崔萬理が1444年2月20日に出した上疏文は有名でこのように述べている。

崔萬理 1444年2月20日 上疏文

崔萬理 1444年2月20日 上疏文

「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。
ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない。」

「漢字こそ唯一の文字であり、民族固有の文字など有り得ない。」

崔萬理の他にも、両班(高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級身分)も反対をするが、世宗大王は「これは文字ではない、訓民正音に過ぎない」と押し切り、学者に命じて1446年に「訓民正音」(”民を教える正しい音”という意味)の名で公布する。

「訓民正音」1446年公布

「訓民正音」1446年公布

公布するに至った理由を世宗大王は以下のように説明している。

「わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。」

ご覧の通り、「訓民正音」で公布された文字(ハングル)は、漢字をどう読んで、どう発音するのか分かるようにするためだったと言う事がわかる。つまり、日本で言うところの「振り仮名」になるのだが、ご想像の通り「訓民正音」が公布されるまで「ひらがな」が無かったという事だ。

1490年頃、武官のナ・シンゴルが妻の孟氏に宛てた現存する最古のハングルの手紙

1490年頃、武官のナ・シンゴルが妻の孟氏に宛てた現存する最古のハングルの手紙

はじめは28文字しかなかったが、どんどん文字が作られるようになり、下流階級のために作った文字がいつのまにか上流階級である王族が使うようになっていた。
事実、上級階級や王族同士の手紙が多く現存していて、その様子が想像できる。
ただ、李氏朝鮮時代は清国の従属下だった為、公文書では従来通りの漢字が使用されており、ハングルは手紙や書簡、詩歌での使用に限られていた。

李氏一族と世宋大王の実態

韓国では世宗大王は民衆のためを想ってハングルを作った偉大なる名君として有名で当然、朝鮮民族だと思っているだろうが、世宋大王の祖父である「康献大王(李成桂)」の出生を調べると朝鮮民族だと断定し難い事が分かる。
また、世宋大王はとても名君とは呼べない悪王だったと言える。

歴代の李氏朝鮮国王は中国へ、忠誠の証として朝鮮の少女たちを貢女として捧げていた。
その中でも世宗大王は「進献色」という機構を設置した上に処女進献を避けるために民衆の間で幼い年齢で早婚させることが流行すると即座に王族など高位層を除いて民衆のみに早婚禁止を実施している。
また、中国の使臣が貢女を1〜2か月かけて選び出す期間中、半島全土に婚姻禁止令を下し、選抜対象となった未婚女性は恐怖に震えるほどだったという。

高麗史

高麗史

この「進献色」というのは騎馬民族に特有の略奪結婚を制度化した「選秀女(せんしゅうじょ)」と同じである。
「高麗史」に記載されているが「選秀女」は、大汗(タイカン・皇帝)のもとに美女を献上するもので、朝鮮は美人が多く、モンゴル人は競って美女を拉致した後、大汗に献上して残った美女は家臣たちが適当に分けたと言われている。「印信、廉承益に命じて、良家の子女にして年十四、五歳なる者を選ぶに、巡軍、忽赤(コルチ)らをして、人家を捜索せしめ、あるいは夜、寝室に突入し、あるいは奴婢を縛問し、子女なき者といえども、驚擾せられ、怨泣の声、閭巷に遍ねし」
「高麗史」忠烈王

「選秀女」はその後の朝鮮王朝にも受け継がれ、世宋大王の代に「進献色」という名前に変わり、明・清という歴代中国王朝に対して、自国の美女を献上する慣習が続けられていた。

朝鮮王朝実録

朝鮮王朝実録

世宗大王の父である李氏朝鮮の第3代国王「太宗」は「処女を隠した者、針灸を施した者が、髪を切ったり薬を塗ったりした者等選抜から免れようとした者」を罰する号令を出しており、朝鮮王朝実録には李氏朝鮮時代、とくに世宗大王が明に対する処女進献は最多と記録されている。

また、世宋大王は父が誰でどの身分でも、二人の間の全ての子供は母の身分に従って奴婢になるようにした奴婢従母法を定めたり等、いくら中国の従属国だとしても自国の女性を物として扱い献上したり、奴婢との間に産まれた子供は奴婢になるという法律を定める王を名君とは言えないだろう。
訓民正音の説明でも「愚かな民」と言うなど、なぜ自国の民に対してこのような考えなのかと疑問に思い色々調べてみたところ、李王家は純粋な朝鮮民族では無い可能性があることが分かった。

李氏一族の出自

李氏朝鮮初代国王 康献大王(李成桂)

李氏朝鮮初代国王 康献大王(李成桂)

李氏朝鮮初代国王は「康献大王(李成桂)」の出自は謎に包まれていて、どの民族なのかというのは知られていない。
倉山満氏は『嘘だらけの日韓近現代史』(扶桑社 2013年 34ページ)で、李成桂を「謎の人物」であり「どこの誰だかよくわからない」と評しており、「韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人(満州人)でしょう。」と述べている。
そこで色んな側面から李成桂がどの民族なのか考えてみた。

まず、李成桂が朝鮮民族だとして、同じ同胞である朝鮮人女性を中国皇帝に進献するだろうか?
しかも、女性にとって厳しい法律を定めたり、罰する号令を出したりと表現が悪いが朝鮮人女性を性奴隷のような扱いをしている。
また、箕子朝鮮から始まった朝鮮人への奴婢制度も信奉しているため、李成桂が朝鮮民族である可能性は限りなく低い。

また、李成桂がモンゴル人だという説に関してだが、李成桂は高麗の元武官である。
高麗は何度も侵攻を受け、自国の女性を捧げている屈辱もしているので、李成桂がモンゴル人だった場合、高麗が受け入れて上級階級である武官までさせるのかという疑問が出てくる。
以上の観点から李成桂が朝鮮人、モンゴル人とする説は無くなり、残ったのは中国人か満州人とする説なのだが、それを読み解くには民族的または人種的に定義された朝鮮民族を中心とした、朝鮮の歴史を民族主義的な歴史観に基づいて研究した「朝鮮民族主義歴史学」がキーになってくる。

「朝鮮民族主義歴史学」は大韓帝国時代に「申采浩」という人物が最初に提唱したもので、「申采浩」は箕子朝鮮を全否定し、中国由来の儒教も全否定しており、朝鮮が日本の保護国となった3年後、「申采浩」は1908年に出版された「読史新論」でこう宣言している。

朝鮮の歴史は壇君を人種的な祖神とする朝鮮民族の歴史であり、檀君はかつて朝鮮半島だけでなく満州の大部分も支配した。

檀君は13世紀頃(高麗時代)に出された「三国遺記」で初めて文献上に登場した人物で「三国遺記」が引用する文献には檀君はどこにも記されておらず、檀君が登場する文献は高麗時代に契丹やチンギス・ハーンに侵攻された辛さを民族高揚のために書かれたとされており、完全に創作された人物とされている。
そして、なぜ満州なのかというと「申采浩」は高句麗遺跡や白頭山(中国側)を訪れ、触発されて「朝鮮民族主義歴史学」を提唱した。
その高句麗が支配していた地域は満州国と大部分が被っている。

高句麗と満州国の比較

高句麗と満州国の比較

そして「申采浩」によると、朝鮮民族は檀君の子孫で、檀君は満州の夫余民族を合併し、高句麗民族の核としてその発展を終えたと言っている。当たり前だが、これも根拠は全くない。

この「申采浩」の主張と李成桂の出生の逸話をすり合わせると、李成桂の出生が大体どの辺なのか見えてくる。
李成桂の両親は「我は白頭山の神仙である。もしお前たち夫妻が100日間祈願参籠をするならば、生まれた子供は後に天下を頂くことになるであろう」というお告げを枕元で聞き、白頭山に100日間祈願参籠をしたという。そして産まれたのが李成桂であると言われている。

白頭山の位置

白頭山の位置

また「申采浩」は、ハングルを完成させたと言われている「周時経」と、家庭雑誌を創刊している。
「周時経」は「李承晩」らと独立協会を立ち上げており、「申采浩」は「李承晩」とも深い繋がりがある。
その「周時経」が、1907年に出版された「国語と国文の必要」で、「朝鮮人は漢字を敬うだけで世宗大王が創製した民族文字を敬うことも使用することもできない」と嘆き、そして「朝鮮人であれば、全ての国語と国文を朝鮮の根本である文字として敬い、愛して使用することを願う」と主張している。

・朝鮮民族固有の文字を創製した世宋大王をリスペクト
・根拠も無く満州の地域も朝鮮民族の土地と主張
・李氏一族は朝鮮人女性を性奴隷として進献していた
・中国文化(儒教など)を全否定

以上の事を踏まえて考えると、李成桂は朝鮮人ではなく満州側(現在の中国)の白頭山近辺で出生したと思われる。

ちなみに、高句麗中興の祖といわれる第19代国王「広開土王」は、朝鮮半島に現存する最古の歴史書「三国史記」で、広開土王は自分で「自分たち高句麗王は黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫である」と称しており、黄帝は三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝と言われている。

最後に「朝鮮民族主義歴史学」は、チュチェ(主体)思想が有名になり誰も注目をしていないが、チュチェ思想の根底は朝鮮民族歴史学であり、北朝鮮も韓国もこの民族歴史学を基にして歴史教育をしている。
個人的にはチュチェ思想よりも非常に危険な考えになるのは「朝鮮民族主義歴史学」だと思っている。
記憶の片隅に入れておいて欲しい。

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