日露戦争・日韓併合に協力した朝鮮人は80万人!!日清戦争以降の朝鮮半島に及ぼした影響勢力を解説!!

ロシア帝国ニコライ二世

Wikipediaでも日清戦争後に「大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。」と書かれているが、デタラメである。

私の調べでは神話とされる時代から朝鮮半島は中国の属国で、特に李氏朝鮮時代は自国の朝鮮人女性(処女)を中国の皇帝に献上するほどの従属ぶりであった。

貢献・臣下の典礼

貢献・臣下の典礼

1894年に起きた日清戦争で日本が清国に戦勝すると、日本と清国との間で下関条約が締結される。
この下関条約で日本は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させたことで、1897年に、もはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという建言に従い、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、国号を李氏朝鮮から大韓帝国に、君主の号を王から皇帝に改めた。

李氏朝鮮時代の高宗

李氏朝鮮時代の高宗

大韓帝国時代の高宋

大韓帝国時代の高宋

冒頭でも触れたが、下関条約締結から日露戦争までの間、清国に戦勝した日本が強い影響力があった事は考えにくく、大国である清国に戦勝した日本の影響というのは民衆の中ではかなり大きかったが、李氏朝鮮王朝内では限りなく無かったと言える。

その理由なのだが、1895年に日本が清国に戦勝すると王妃の「閔妃(びんひ)」が朝鮮で一層強化する日本の支配力を警戒し、三国干渉によってロシア帝国の東アジアへの影響力が強まったことで、日本への牽制を含めて親露政策を強めるようになった。

閔妃

閔妃

1896年2月11日に親露派の李範晋や李完用らのクーデターにより、高宗がロシア公使館に逃げて、そこで執務を行うようになる。
日本の後押しを受けていた開化派が崩壊したことで、ロシア帝国の影響力が強まったのだ。
その為、親清派勢力の一掃を図り日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立させた甲申政変に参加した国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化、植民地化を危惧して、開化思想を民衆に啓蒙するために、李完用、李承晩、周時経らと1896年7月に朝鮮における立憲君主制導入を目指し、運動団体「独立協会」を立ち上げた。
ロシアの影響力が顕著になると独立協会は反露闘争を展開。
ロシア公使館に逃げていた高宗に王宮に戻ることを要請し、高宗は王宮に戻り、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、国号を李氏朝鮮から大韓帝国に、君主の号を王から皇帝に改めた。

こような事から見ても影響が強かったのは日本ではなくロシア帝国である。
ロシア帝国の影響が強かったといえる事例は他にもあり、1897年9月にロシア公使がアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルに代わると、シュペイエルは同年1897年10月に高宗より財務アドバイザー、税関のチーフコミッショナーの地位を得た英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件を起こしたり、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃するなどをした。
このような状況をアメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレンはこのように報告している。

韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。

せっかく清国から自主独立を果たさせたのに、ロシア帝国に靡く大韓帝国の様子を安全保障の観点から危惧した日本はロシア帝国に宣戦布告をして日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)となる。

露国ニ対スル宣戦ノ詔勅
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ宜ク全力ヲ極メテ露國ト交戰ノ事ニ從フヘク朕カ百僚有司ハ宜ク各々其ノ職務ニ率ヒ其ノ權能ニ應シテ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ凡ソ國際條規ノ範圍ニ於テ一切ノ手段ヲ盡シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
惟フニ文明ヲ平和ニ求メ列國ト友誼ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各國ノ權利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝國ノ安全ヲ將來ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕夙ニ以テ國交ノ要義ト爲シ旦暮敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕カ有司モ亦能ク朕カ意ヲ體シテ事ニ從ヒ列國トノ關係年ヲ逐フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露國ト釁端ヲ開クニ至ル豈朕カ志ナラムヤ
帝國ノ重ヲ韓國ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ兩國累世ノ關係ニ因ルノミナラス韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露國ハ其ノ淸國トノ明約及列國ニ對スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露國ニ提議シ半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露國ハ一モ交讓ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日彌久徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽ニ平和ヲ唱道シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス凡ソ露國カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ認ムルニ由ナシ露國ハ既ニ帝國ノ提議ヲ容レス韓國ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝國ノ國利ハ將ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝國カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル將來ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠實勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

そして、日露戦争の勃発後に日本が軍事的、外交的、経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗は、朝米修好通商条約(1882年)の第1条「周旋条項」に基づいて、アメリカ合衆国に朝鮮の独立維持のための援助を求めることを構想し、李王家の分家で英語が話せる独立協会の運動で逮捕し投獄していた李承晩を釈放し、アメリカに派遣した。

投獄中の李承晩(1899年、前列左端)

投獄中の李承晩(1899年、前列左端)

李承晩(1909年撮影)

李承晩(1909年撮影)

ハワイ経由で渡米した李承晩は1905年8月、当時の米大統領であったルーズベルトに面会して「我々は皇帝の代表者ではなく、一進会という団体の代表者である」「皇帝は朝鮮人の利益を代弁する事ができない」と、大韓帝国と高宗を否定している。

この「一進会」というのは上記で触れている「独立協会」が、高宗の皇帝勅令で1898年12月25日に強制解散された後、1904年に結成された政治結社であり、1909年12月4日に当時の一進会の会長だった李容九が、一進会員との連名で「韓国皇帝 純宗」「統監 曾禰荒助」「首相 李完用」に対して提出した声明書の内容を見ると当時の大韓帝国や高宗のヘッポコ具合が分かる。

日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

また、一進会は当時の大韓帝国では最大の政治結社で、会員数は公称80万人で最終的には100万人と言われている。

政社及非政社国体

政社及非政社国体

日露戦争を西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシア帝国の侵略を阻止しようと考えた李容九は日本に協力した。
日本が武器弾薬を北方へ輸送するために鉄道(後の京義線)を建設する際、その工事に無償で参加した一進会員は全部で15万人、北鮮から満州国へ軍需品を運搬する業務に動員された会員は11万5000人、合計約27万人が日露戦争時に一進会として活動した。

事実、大韓帝国皇帝の高宗は1897年10月に財務アドバイザーと税関のチーフコミッショナーの地位を英国人のジョン・マクレヴィ・ブラウンに与えており、日清戦争後の大韓帝国はロシア帝国やイギリスを含めた西欧勢力が大韓帝国の内部に侵略していた事が分かる。
そしてロシア帝国に辛くも勝利した日本は大韓帝国を保護下に置き、1910年の日韓併合によって日本国領となった朝鮮を統治するために朝鮮総督府を1910年9月30日に設置する。

以上が日清戦争から大韓帝国を日本が保護下に置くまで、李氏朝鮮及び大韓帝国に強い影響を及ぼしていたのは日本では無く、ロシア帝国を含める西欧勢力だったということがお分かりいただけただろう。

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