【名誉回復】藤井一良氏の祖父「藤井治」氏のストーリーと解説及び深田萌絵の詐欺手口

1922年(大正11年)藤井治氏は山口県防府市に四人兄弟の長男として生まれた。
1934年(昭和 9年)父親の転勤で中国大陸に渡る。
大連第一中学校を卒業し、早稲田第一高等学院へ(単身で東京住み)
1944年(昭和19年)2月、満州の関東軍鉄道第三連隊に配属、中国大陸へ(学徒動員)
1945年(昭和20年)8月9日、中国残留孤児及び残留婦人等の発生
1945年(昭和20年)8月15日、天皇陛下、終戦の詔書録音放送
藤井治氏は湖南省にて終戦を迎える。
終戦の混乱の中、藤井治氏は軍が残した医学書や薬剤を頼りに住民や仲間の治療を始めた事で、それからの運命を大きく変えることになる。

『ある時期、中国語が話せないために身障者(耳が聞こえない)フリをして手真似で意思を伝えていた。
そして、馬に蹴られた子供の命を助けることができ、しばらくそこに住むことができた。』

1945年(昭和20年)9月2日、降伏文書調印(東京湾の米戦艦ミズリー号上で降伏文書に署名)
1946年(昭和21年)5月14日、中国からの集団引揚げ開始
1948年(昭和23年)8月19日、旧満州地域からの最終集団引揚げ
1949年(昭和24年)10月1日、中華人民共和国成立
1949年(昭和24年)10月3日、中国(大連)からの集団引揚中断
1951年(昭和26年)9月8日、対日平和条約、日米安全保障条約調印(サンフランシスコにて)
1952年(昭和27年)周健清さんと結婚
その後、二人の子供を授かる。(藤井一良氏の父、藤井健夫さん(中国名 呉也凡)は昭和28年生まれ)

藤井治氏との結婚を妻(インタビュー時は未亡人)の周健清さんはこう語った。

1952年(昭和27年)2月25日、個別引揚者の船運賃の負担(帰国に要する船運賃を国庫負担)
1952年(昭和27年)3月18日、海外邦人の引揚に関する件(閣議決定)
1953年(昭和28年)2月27日、引揚者に対し帰還手当を支給(昭和62年から「自立支度金」に改称)
1953年(昭和28年)3月23日、中国からの集団引揚再開
1953年(昭和28年)8月1日、未帰還者留守家族等援護法(法律第161号)公布
1958年(昭和33年)7月13日、中国からの集団引揚終了(以後は個別引揚げ)
1959年(昭和34年)3月3日、未帰還者に関する特別措置法(法律第7号)公布
1962年(昭和37年)6月1日、中国地域引揚者に対する出境地までの帰国旅費の支給(日赤に委託し実施)
1966年(昭和41年)、文化大革命
文化大革命の期間中、藤井治氏は日本のスパイとして身柄を拘束され、家族も非常に冷遇な扱いを受ける。(藤井一良氏の父、藤井健夫さん(中国名 呉也凡)が11歳の時)
釈放後は要監視対象の生活を強いられることになる。


文化大革命は1976年まで続き、1977年に終結宣言。
1972年、藤井治氏の当時の日記には日本人として罵られたこんな言葉も記されている。

1972年(昭和47年)9月29日、日中国交正常化(北京において共同声明に調印)
1972年(昭和47年)11月17日、藤井治氏から山口県防府市役所に自身の生存と家族の所在を問う手紙が届く。

1973年(昭和48年)10月18日、中国からの引揚者に対する帰国旅費を国庫負担
1973年(昭和48年)10月31日、中国在留邦人の一時帰国(里帰り)旅費を国が全額負担することを決定

1973年(昭和48年)10月電話による、声だけの対面が実現
姉の千代子さん曰く『国交回復したと申しましたとしてもお互いの信頼状態が不安定な時代でございましたと見えまして、それで治が電話します時の、その後ろに長男を人質のように立たせ、その後ろに中国の兵士の方が銃を構えて、もし中国に対して不利な事を電話で話しをすれば、この息子を殺すって言ったって、その状態の下での電話』だったという。

1975年(昭和50年)3月12日、中国残留孤児の身元調査のため報道機関による第1回公開調査実施(以後公開調査は昭和56年1月まで9回実施)
1978年(昭和53年)8月12日、日中平和友好条約署名・調印(10.23批准書交換)
1979年(昭和54年)1月26日、中国からの帰国者に対し、語学教材の支給開始(昭52年4月以降の帰国者に支給)
1979年(昭和54年)6月5日、一時帰国経験者であっても永住帰国援護を行うこととした。
1979年、藤井治氏が約30年ぶりに日本に一時帰国。(日本に3ヶ月滞在)

日本に残るか中国に戻るか悩むも、母の藤井八代乃さんの助言もあり、中国に戻ることを決める。
藤井治氏は『僕は中国に骨を埋めるよ。』と言い中国に帰る。

1980年(昭和55年)11月5日、中国残留孤児問題について第1回関係各省庁連絡会議開催
(以降、平成16年3月まで33回開催。第1回は外務省主催、第2回目以降は厚生省主催)
1981年(昭和56年)3月2日、第1次訪日調査実施(以降、平成11年度まで通算30回実施)
1982年(昭和57年)3月26日、中国残留日本人孤児問題懇談会発足(以降、平成元年度まで通算18回)
1983年(昭和58年)3月8日、中国からの帰国者及び日本語指導者に対して、日本語教材「中国からの帰国者のための生活日本語」の配布(文化庁から)
1983年(昭和58年)4月1日、(財)中国残留孤児援護基金設立
1984年(昭和59年)2月1日、中国帰国孤児定着促進センター開所(所沢)(平成6年4月1日「中国帰国者定着促進センター」に改称)
1984年(昭和59年)3月17日、中国残留日本人孤児問題の解決に関する口上書を日中両国間で交換(1.養父母に対する扶養費の送金、2.未判明孤児の受入等)
1984年(昭和59年)7月30日、中国政府及び東北三省政府孤児問題担当者を日本へ招待(以後、平成3年度まで毎年日中交互に担当者を招待、平成8年度交互実施)
1984年(昭和59年)11月6日、(財)中国残留孤児援護基金が帰国孤児の養父母を日本へ招待(以降毎年招待)
1984年、藤井一良氏が中国で生まれる。(この時はまだ日本名・日本国籍は無い)
1985年(昭和60年)3月29日、身元未判明孤児の永住帰国受入れ(身元引受人制度の創設)
1986年(昭和61年)4月2日、肉親調査にコンピューター・システム導入
1986年(昭和61年)5月9日、帰国孤児の養父母に対する扶養費に関する口上書を日中両国間で交換
・帰国孤児1人につき1人分
・10,800元(60元×12月×15年)
・(財)中国残留孤児援護基金から中国紅十字会総会へ送金
1986年(昭和61年)12月15日、中国帰国孤児定着促進センター(所沢)を拡充(年間受入能力 90世帯→ 180世帯)
1987年(昭和62年)4月1日、大阪中国帰国孤児定着促進センター開所(平成6年4月1日「大阪中国帰国者定着促進センター」に改称)
1987年(昭和62年)4月1日、再一時帰国援護開始(対象:一時帰国後概ね10年経過した者)
1987年(昭和62年)6月1日、北海道中国帰国孤児定着促進センター開所
1987年(昭和62年)6月1日、福島中国帰国孤児定着促進センター開所
1987年(昭和62年)7月1日、福岡中国帰国孤児定着促進センター開所(平6.4.1「福岡中国帰国者定着促進センター」に改称)
1987年(昭和62年)10月1日、愛知中国帰国孤児定着促進センター開所
1988年(昭和63年)6月1日、埼玉県等(神奈川、愛知、大阪、長崎、鹿児島)の6か所に中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)6月5日、兵庫県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)6月23日、長野県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)6月24日、京都府中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)7月1日、東京都中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)7月1日、福岡県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)7月21日、広島県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)7月23日、山形県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)8月31日、高知県中国帰国者自立研修センター開所
1988年(昭和63年)10月1日、千葉県中国帰国者自立研修センター開所(計15か所 )
1989年(平成元年)7月31日、身元判明孤児に対する特別身元引受人(在日親族が判明孤児の帰国を拒み、その相談相手となることが期待できない者の相談相手)制度の創設
1989年(平成元年)12月12日、中国帰国者自立対策委員会発足(以降平2年度までに2回開催)
1990年(平成2年)8月29日、(財)中国残留孤児援護基金が中国残留婦人一時帰国に対する協力、援助事業開始
1991年(平成3年)4月1日、一時帰国の滞在費支給
1991年(平成3年)4月30日、北海道中国帰国孤児定着促進センター閉所
1991年(平成3年)6月20日、特別身元引受人制度の対象者に残留婦人等を追加
1991年(平成3年)7月31日、福島中国帰国孤児定着促進センター閉所
1991年(平成3年)12月25日、藤井治氏 逝去
1991年(平成3年)12月27日、中国衡陽市において医療貢献をした日本人として市葬

藤井一良氏7歳、
藤井一良氏の父、藤井健夫さん(中国名 呉也凡)が36歳の時
※藤井治氏の日本の戸籍にも平成3年に死亡となっている。※
1993年(平成5年)、日本で婚姻届けが出さる。(藤井治氏との)
1994年(平成6年)、藤井一良氏の父、藤井健夫さん(中国名 呉也凡)と藤井一良氏の出生届が出される。

ここから解説

藤井治氏の死後、藤井治氏の妻の婚姻届け提出、藤井健夫さん、藤井一良氏の出生届け提出が深田萌絵及び、深田萌絵信者で疑問視されているが、これは1994年(平成6年)の「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進並びに永住帰国した中国残留邦人等及び特定配偶者の自立の支援に関する法律(平成六年法律第三十号)」における中国残留邦人、配偶者の就籍と思われる。
時系列にすると、この法律は婚姻届け、出生届けの提出後になるが、法律の内容を見ても中国残留邦人の死後でも適用されるので、この件はこれで解消される。

不正取得云々と言ってる人達は不正取得した証拠をまず提示して欲しい。
深田萌絵が言っていると言うのなら、あなた達が深田萌絵に不正取得した証拠を出してもらうよう求めろ。

また、電話で姉の千代子さんと藤井治氏の対面が実現した際、姉の千代子さんが『国交回復したと申しましたとしてもお互いの信頼状態が不安定な時代でございましたと見えまして、それで治が電話します時の、その後ろに長男を人質のように立たせ、その後ろに中国の兵士の方が銃を構えて、もし中国に対して不利な事を電話で話しをすれば、この息子を殺すって言ったって、その状態の下での電話』と言ったので、藤井治氏の家族や親族は中国人の妻や子供がいる事は当然知っていたことになる。
一時帰国した際には当然、中国軍の兵士の監視が無いので話していると断定しても問題無いだろう。

藤井一良氏が公開したドキュメンタリー動画「「学徒出陣50年」蘇る”わだつみ”-戦後なき学徒兵の秘話-」を見れば分かる通り、「藤井治=呉健華」も事実であり、藤井一良氏の父親(中国名 呉也凡)が長男であることも事実だと分かる。
しかし、藤井健夫さんの少年期の写真と深田萌絵及び深田萌絵信者らが無断公開してしまっている中国の戸籍写真の耳の形が違う「耳の形は生涯変わらない」という香ばしい都市伝説級のネタを披露している。
耳の形は生涯変わらないのではなく、変わりにくいが正解である。
高校生レベルで見ていてこっちが恥ずかしくなる。

深田萌絵は、事実(例えば戸籍)を出して、それに対してデマを肉付け(例えば不正取得など)して長文で書くのだ。
事実で興味を持たせ、話を聞く体勢にしてからデマを刷り込んで騙すというのは詐欺師が良くやる手口である。
その為、最初に事実の提示があるから、他に続くデマも事実のように見えてしまうので、思考停止で情報を鵜呑みにしてる人達は洗脳されてしまう。
深田萌絵が契約書の一部を公開してる記事を見てから、私のサイトで全部公開してる契約書の記事を見れば分かるだろう。


保証金なのに確定返済日と遅延損害金の設定がされている。


契約書に記載されている保証金1000万円の1回目の確定返済日に返済が深田萌絵から無かったため、新丸ビルで深田萌絵と藤井一良氏が話し合った音声データである。これは藤井一良氏から提供されたものであり未編集である。


深田萌絵の会社の謄本。これを見れば深田萌絵が「潰された」する主張がデマだということが分かる。

深田萌絵は「ファーウェイのスパイに騙されて、うちの技術(ソースコード)を盗まれて、会社が潰れた」等という主張をしていたと思うのだが、これらを見て、まだそれを信じている人がいたら一度、受診する事をおすすめする。

 

関連記事

  1. 【解説】藤井治氏、藤井健夫氏、藤井一良氏の戸籍について※ピンクスパイガー深田萌絵(浅田麻衣子)氏による【藤井一良デマ事件】

  2. 【ピンクスパイガー】被害者続出?!誰でもスパイ扱いしちゃう深田萌絵氏の信じられない作り話とは

  3. 【謎】ピンクスパイガー深田萌絵(浅田麻衣子)さん藤井一良氏と弁護士2名を名誉棄損で訴える!!もトンズラして自動却下(笑)

  4. 【嘘】エア野党の会の山岡鉄秀氏の実績「北朝鮮工作船展示」は、ただ単に外国人の問い合せが多かったから。笑

  5. 「KAZUYA騒動」ポンペオ?ポンペイオ?パンピーオ?正しい呼び方はなに?

  6. 【解説】ピンクスパイダー「深田萌絵」が藤井一良氏が盗んだという”うちのソースコード”とは

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。